
銀太がうちに来たのは、夕方だった。
ペットショップのスタッフが小さなキャリーバッグを差し出したとき、中からちらりとこちらを見た目が、今でも忘れられない。
怖いのか、緊張しているのか、それとも単に眠いだけなのか。
あの時の銀太の表情を、わたしはうまく読めなかった。
帰りの車の中、助手席に置いたキャリーバッグは静かだった。
鳴きもしなかった。
それがかえって心配で、信号待ちのたびに確認した。
はじめて「家」になった夜
玄関を開けて、銀太をキャリーから出した。
初めて踏む床の感触を確かめるように、おそるおそる前足を出した。
それからくんくんと鼻を動かして、部屋の匂いをひとつひとつ確認していくような仕草をした。
「ここが、おまえの家だよ」
そう声に出して言ったとき、銀太はこちらを見なかった。
まだ信用していない、というより、そもそもわたしのことを「信用するかどうか」を判断する段階にも達していない、そんな感じだった。
ケージに入れて、ペットシーツを敷いて、水飲み器をセットして。
準備はしてあったはずなのに、何かが足りない気がして、何度も同じ場所を確認した。
銀太はケージの奥の隅に小さく丸くなって、目を閉じた。
眠れなかった

夜中の2時を過ぎたころ、鳴き声が聞こえた。
小さかった。でも静かな夜には十分すぎるくらい響いた。
くぅ、くぅ、と繰り返す声は、助けを求めているのか、ただ不安なのか、わたしには判断できなかった。
犬を飼うのが初めてだったわたしは、「夜泣きしても構ってはいけない」という情報と、「かわいそう」という感情の間で、布団の中でじっとしていた。
構えば癖になる。
でも、無視するのはつらい。
結局わたしは、ケージのそばに毛布を持ってきて、床に寝転がった。
ケージの金網越しに銀太の顔が見えた。目が合った気がした。
鳴き声は少しだけ小さくなった。
それで十分だと思った。
朝になってわかったこと
気づいたら眠っていた。
目を開けると、銀太がケージの中からこちらを見ていた。
さっきまでの不安そうな顔とは少し違う、何かを確かめているような目だった。
わたしが起き上がると、銀太はしっぽをほんの少しだけ振った。
大げさではなく、ぱたぱたと小さく、一回か二回。
でもわたしにはそれが、すごく大きく見えた。
朝ごはんのフードを食器に入れて出すと、銀太は少し間を置いてから食べた。
全部ではなかったけれど、食べた。それだけで、ほっとした。
「なんとかなりそうだ」と思った。
あの夜のことを、わたしはまだ覚えている
あれから何年も経った。
今の銀太は、ごはんの時間になると食器の前で堂々と待っているし、散歩では自分の好きなルートに誘導しようとするし、触ろうとすると絶妙なタイミングでかわす。
どこにも「あの夜の小さな子犬」の面影はない。
でも、夜中に聞こえたあの小さな鳴き声のことを、わたしはまだ覚えている。
あの声が聞きたくて床に寝転がったことも。
目が合った気がしたときの、あの感じも。
あの夜があって、今の銀太がいる。
柴犬と暮らすということは、そういう夜を共有することなのかもしれないと、最近になってようやく思えるようになった。
まとめに代えて
銀太はたぶん、あの夜のことを覚えていない。
犬に記憶がどれだけあるのかは知らないけれど、少なくとも銀太はそんな顔をしていない。
毎朝起きてくるわたしを見ても、特別感動した様子もなく、「早く散歩行くぞ」という目で玄関を見ている。
それでいい、と思う。
覚えているのはわたしだけでいい。
あの夜のことは、わたしだけの記憶にしておく。
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