
朝、まだ頭が半分眠ったままキッチンに立つ。
コーヒーの湯気がゆらゆらと揺れ、私はぼんやり窓の外を見る。
最近は寒さよりも、関節のきしみで季節を感じる年頃だ。

背後に、気配。
振り向くと、そこにいる。
うちの柴犬”銀太”だ。じっとこちらを見つめ、耳をぺたりと横に倒している。
我が家にはリビングと私の寝室にそれぞれ銀太のケージがある。
彼の気分次第でどちらでも就寝可能だ。

昨晩はリビングで寝ていたので今朝はまだ会っていなかった。
きれいなヒコーキ耳。
左右に水平、まるで今にも離陸しそうだ。しっぽは遠慮がちに揺れ、目は三日月。
口元は、ほんの少しだけ上がっている。
「おはようの合図か」

私はカップを持ったまま、思わず笑う。
やはり彼は「おはよう」のヒコーキを飛ばしているらしい。
撫でると、耳はさらにぺたんと寝る。

体をすり寄せ、前足で私の膝をちょいと押す。
その力加減が絶妙で、「もっと」と言っているようで言っていない。
平日の朝は、正直なところ戦場だ。
仕事のこと、体力の衰え、最近増えた白髪。
鏡を見るたびにため息が出る年齢である。

若い頃の私は、もっと複雑だった。
言いたいことを飲み込んだり、強がったり、評価を気にしたり。
今もそれはゼロじゃないけれど、ヒコーキ耳を見ていると、なんだか自分がややこしく思えてくる。
「そんなに嬉しいのか?」と声をかけるが、たぶん彼は深く考えていない。
ただ、今この瞬間がうれしいのだ。

ある日の夕方。
仕事で少しだけ、ほんの少しだけつまずいた。
私よりは多少若い同僚のスピードについていけず、「まあ、無理しなくていいですよ」と優しく言われたのが、心のどこかで引っかかる。
玄関のドアを開ける。
廊下の奥から、爪の音がコツコツと近づいてくる。

現れたのは、全力ヒコーキだった。
耳は最大角度、しっぽはプロペラ、体はくねくね。
勢いあまって私のスリッパを踏み、さらに足に体当たり。
「ちょ、ちょっと待て」
しゃがみ込むと、彼は鼻先で私の頬をつつく。

その瞬間、耳はぺたり。完全着陸。
何も知らないはずなのに、全部わかっているような顔をする。
いや、きっと何もわかっていない。
ただ「帰ってきた」それだけで、こんなにも嬉しいのだ。
私は彼の背中を撫でながら思う。
評価も、肩書きも、勝ち負けも、結局は外側の話だ。
でも今は、こうして帰宅しただけで全力歓迎してくれる存在がいる。
それだけで十分じゃないか、と少し思える。

ヒコーキ耳は、言葉を使わない告白だ。
「好きだよ」
「一緒にいるだけでいいよ」
たぶん、そんな単純で、だからこそ強いメッセージ。
夜、ソファに座る私の足元で、彼は丸くなる。
テレビの音に反応して耳がぴくりと立つ。

私が名前を呼ぶと、またゆっくりと倒れる。
今日何があったかなんて、説明はいらない。
ヒコーキ耳ひとつで、十分伝わるらしい。
年を重ねると、できないことが増えていく。
無理もきかないし、昔ほどの勢いもない。
でも、その分だけ、わかることもある。
言葉より先に、気持ちは伝わること。
飾らない好意は、静かに人を救うこと。
彼は今、私の足に顎を乗せ、安心しきった顔で眠りかけている。

耳は穏やかに立ち、時折ぴくりと動く。夢の中でも、何かを聞いているのだろうか。
明日の朝も、きっとまたヒコーキが飛ぶ。
大げさでもなく、派手でもなく、ただ静かに。
柴犬は今日も耳で語っている。
そして私は、その無言のメッセージを受け取りながら、もう少しだけ優しくなれる気がしている