
朝の散歩が終わり、玄関先で一息ついているときだった。
日差しがちょうどよく、風も穏やかで、うちの柴犬”銀太”(以下、銀太)もどこかご機嫌そうに見えた。

「今だな」
そう思って、私はポケットからスマホを取り出した。
さっきまで、しっぽはゆるく揺れ、目も細くして、いかにも「いい朝ですね」という顔をしていた。

ところが、レンズを向けた瞬間である。
ピタッ。
空気が止まったかのように、しっぽは止まり、口角は消え、表情は一気に真顔になる。

……なぜだ。
シャッター音も鳴らしていない。
ただ構えただけだ。

なのに彼は、証明写真を撮られる公務員のような顔で、じっとこちらを見返してくる。
私は少し距離を取り、角度を変え、しゃがみ込み、優しい声で名前を呼ぶ。
「ほら、銀太、かっこいいね〜」
すると一瞬だけ耳が動くが、顔は相変わらず無表情のままだ。

心の中で、私は小さくため息をつく。
若いころは、写真なんて適当でもよかった。
ピンボケでも、ブレていても、「まあ、こんなもんか」で済ませられた。
でも今は違う。
せっかく一緒に暮らしているこの時間を、ちゃんと残したい。
できれば、あの柔らかい表情を、そのまま。

だが我が家の銀太は、そんな私の気持ちなどお構いなしだ。
むしろ「写真用の顔?それは別料金です」とでも言いたげな無の表情。
こちらが必死になるほど、向こうは落ち着き払っている。
結局、何枚撮っても真顔のまま。

私はスマホを下ろし、苦笑いしながら立ち上がる。
すると、その瞬間だった。
カシャリと音を立てない代わりに、彼はふっとあくびをし、目を細め、いつもの穏やかな顔に戻った。
ああ、今の顔だよ。
その顔を撮りたかったんだよ。

そう思いながらも、私はもうスマホを構えなかった。
年を重ねると、思い通りにならないことが増える。
体も、気力も、そして柴犬の写真も。
でも、思い通りにならないからこそ、こうして笑っていられるのかもしれない。
玄関に入る前、彼は何事もなかったように、私の足元にちょこんと座った。

真顔のまま、でもどこか満足そうに。
今日も写真は残らなかったけれど、この朝の空気と気持ちは、ちゃんと胸に残った気がした。