
朝4時半。目覚ましより先に、鼻先のぬくもりで目が覚めた。
薄目を開けると、そこには正座した我が家の柴犬”銀太”の姿。
背筋はまっすぐ、視線は鋭く、まるで管理職の朝礼だ。
「……まだ早いだろ」
私がそう言うと、ふん、と小さく鼻を鳴らした。否定の鳴き声は一切ない。

ただの鼻息なのに、なぜか「言い訳は聞かない」と言われた気がする。
私は今年で58歳。若いころは寝坊の常習犯だったが、今は犬に起こされる生活である。
しかも相手は目覚まし時計より正確だ。雨の日も、休日も、正月も関係ない。

布団の中で三分ほど抵抗してみる。腰が重い。膝も少し痛い。人生にも疲れが出る年頃だ。
だが彼は動かない。
いや、正確には「動かずに圧をかけてくる」。
じっと見つめ、しっぽを一度だけ、ぽん、と床に当てる。
その音が「さあ?」と聞こえるのは、私の被害妄想だろうか。
「わかったよ……行けばいいんだろ」
私が起き上がると、彼は勝利を確信した顔で立ち上がり、玄関へ向かう。
振り返りもしない。部下の成長を信じる上司の背中である。

散歩の途中、彼は電柱を点検し、公園のベンチを監査し、近所の猫を確認する。仕事が丁寧だ。私は後ろで息を切らしながらついていく。
信号待ちのとき、彼はちらっと私を見上げた。
その表情がまた腹立たしいほど人間くさい。
「やれやれ、運動不足だな」
「でもまあ、仕方ないか」
そんな二つの感情が、顔に同時に書いてある。
不思議なものだ。
エサは私が用意している。
トイレも掃除している。
病院代も払っている。

なのに、主導権は完全にあちらだ。
私はふと考える。
……もしかして、私は飼われているのでは?
仕事で失敗した日も、誰とも話さず帰った夜も、彼は同じ態度だ。
無関心でもなく、過剰でもなく、ただそこにいる。
それだけ。

それだけなのに、不思議と胸の奥がゆるむ。
「……今日は参ったよ」
そう話しかけると、彼は片目だけ開けて、また閉じた。
慰め方まで省エネ設計である。

散歩を終えて帰宅すると、彼は満足そうに水を飲み、日向で丸くなる。
私はその横でコーヒーをすする。
世話をしているつもりで、健康管理をされ、生活リズムを整えられ、孤独もほどほどに薄められている。
なるほど。
これは完全に「飼育」だ。
しかも悪くない。
今日も私は、柴犬という名の無口な管理人に飼われながら、生きている。
たぶん、明日も。