
夕方5時。私はまだパソコンの前にいる。
画面の向こうでは私よりは少し若い同僚が「来週の締切がですね」と真剣な顔で話している。
そのとき、背後から聞こえる「カリ…カリ…」。
振り返らなくても分かる。
おやつの棚の前で、うちの柴犬”銀太”(以下、銀太)が前足で静かに主張しているのだ。

時計を見る。17時ぴったり。
彼の中では“おやつの時間”らしい。
「ちょっと今、会議中なんだよ」
小声で言ってみるが、通じない。
むしろ、ゆっくりこちらへ歩いてきて、私の椅子の横にぴたりと座る。

背筋を伸ばし、耳を立て、じっと見上げる。
無言の圧。
カメラはオン。
私は真面目な顔で相づちを打ちながら、足元では尻尾がゆっくり左右に揺れているのが視界に入る。
「ごろうさん、どう思いますか?」と急に振られ、「え、あ、はい」と慌てる私。

その瞬間、銀太は小さく「ワン」。
――タイミングが絶妙すぎる。
若い同僚が笑いをこらえ、「可愛いですね」と言う。
私は苦笑いしながらミュートに切り替え、観念して立ち上がる。
棚から袋を取り出すと、彼はもう待機姿勢。
おすわり完了。目はきらきら。尻尾は高速回転。

たった数粒のおやつなのに、この世の幸福をすべて手に入れたような顔をする。
私はというと、締切や数字や将来の不安で、頭の中がいつもざわついている。
若い頃はもっと野心があったはずだが、最近は「ほどほどでいいか」と思う自分もいる。
でも、この銀太は違う。17時は17時。
それ以上でもそれ以下でもない。

自分の決めた時間を、きちんと生きる。
遠慮もしないし、忖度もしない。
おやつを食べ終えると、満足げに鼻を鳴らし、くるりと向きを変えてソファに飛び乗る。
そして丸くなる。
“やることはやりました”という背中。

私は再びパソコンに向かう。
さっきまでの焦りが、少しだけ薄れている。
会議が終わり、静かになった部屋で、ふと見ると彼はもう眠っている。
口元がわずかにゆるみ、足がぴくりと動く。夢の中でも忙しいらしい。
私はその姿に、小さく笑う。
時間割は柴犬仕様。

仕事よりも、おやつよりも、きっと彼にとって大事なのは“自分のリズム”なのだろう。
私はそっとブランケットをかける。
すると、薄目を開けてこちらを見て、またすぐに目を閉じた。
――承認された気がした。

明日も17時になれば、きっと同じようにカリカリと棚を叩くだろう。
その音を聞きながら、私はまた少し肩の力を抜く。
柴犬の時間に合わせる暮らしも、案外、悪くない。