
夕方、私はリビングの真ん中で”あぐら”をかきながら、少し低めの声で呼んだ。
「おーい、こっちおいで」
柴犬は窓辺に座り、夕陽を背中いっぱいに浴びている。
耳はぴんと立っている。間違いなく聞こえているはずだ。

しかし、来ない。
ちらりとこちらを見た。
目が合う。確かに合った。
それなのに、すぐにふいっと視線を外し、何事もなかったかのように前足をぺろりと舐め始めた。

……今、無視したよな?
私はもう一度呼ぶ。
「おいでってば」
柴犬のしっぽが一度だけ、ゆるく揺れた。
だが体は動かない。
まるで「聞こえてはいるが、今はその気分ではない」と言わんばかりの態度だ。
昔の私は、こういう態度に少し腹を立てていた。
「ちゃんとしつけなきゃいけないのでは」と、どこかで焦っていた。

けれど今は違う。
正直に言えば、もう全力で走って追いかける体力もない。
膝も少し痛いし、夕方になると理由もなく疲れる。
だから私はその場で小さくため息をつき、床にごろんと横になった。
「来ないなら、まあいいか」
そうつぶやいた瞬間だった。
コツ、コツ、と軽い足音。
視界の端に茶色い影が近づいてくる。
気づけば、私の足元にちょこんと座っている。

顔は相変わらず真顔だ。
「別に呼ばれたから来たわけじゃないけど?」という顔である。
けれど、しっぽは控えめに、しかし確実に揺れている。
ああ、こいつはわかっているのだ。
私が本気で寂しくなる一歩手前を。
呼んだ瞬間に駆け寄ってくる犬もかわいい。

でも、少し間を置いて、こちらの出方をうかがう柴犬もまた、なんとも言えず愛おしい。
思えば、私も若いころはすぐに返事をしなかった。
親に呼ばれても、「今行く」と言いながら動かなかった。
会社でも、すぐに愛想よく返せるタイプではなかった。
そう考えると、この子の気まぐれは、どこか自分に似ている。

ツンデレなのか、聞こえていないふりなのか。
本当の理由はたぶん、どちらでもない。
「今じゃない」という、ただそれだけなのだろう。
年を重ねると、すぐに応えられない瞬間が増える。
体力も、気力も、若いころのようにはいかない。
それでも、少し遅れてでも、ちゃんと向き合えればいい。

私はそっと手を伸ばし、柴犬の首元を撫でる。
ふわりと柔らかい毛。
目を細め、わずかに鼻を鳴らす。
そして、また少し離れて座る。
べったり甘えるわけではない。
その距離感が、ちょうどいい。

私は小さく笑う。
「呼んでも来ない本当の理由、わかったぞ」
きっとこの子は、私を試しているわけでも、無視しているわけでもない。
ただ、自分のペースで生きているだけだ。
そして不思議なことに、そのペースに合わせるようになった自分がいる。

窓の外はもう暗い。
私が立ち上がろうとすると、柴犬もすっと腰を上げる。
呼ばなくても、ちゃんとついてくる。
さっきは来なかったくせに。
私は心の中で笑いながら、今日もこの小さなツンデレと並んで歩くのだった。