
朝、目を開けた瞬間から、もう負けている。
枕元にふわり、空中を舞う白い毛。昨夜きれいに掃除したはずの床にも、うっすら雪のように積もっている。
隣では、うちの柴犬が「何か?」という顔で丸くなり、尻尾だけを小さく振っている。

換毛期。年に二度やってくる、私とこの犬の静かな戦争だ。
まず一つ目。撫でただけで毛が抜ける。

二つ目。抜けた毛が私のコーヒーに入る。

三つ目。スーツの黒が即グレーになる。

四つ目。掃除機を出すと逃げるくせに、終わると定位置に戻っている。

五つ目。ブラッシングを始めると「裏切られた」みたいな目をする。

六つ目は、なぜか風呂上がりの私に体をこすりつけてくること。せっかくの清潔が三秒で台無しだ。

七つ目、毛玉を集めると、もう一匹犬が作れそうな量になる。

八つ目、くしゃみが止まらないのに本人は涼しい顔。

九つ目、「換毛期だから仕方ない」と自分に言い聞かせる回数が増える。

そして十個目。文句を言いながらも、結局また撫でてしまう自分がいる。

ブラシを持って近づくと、うちの柴犬はわざと目をそらす。
知らんぷりを決め込むその横顔が、妙に頑固な親戚のおじさんに似ていて、私は毎回笑ってしまう。
「ちょっとだけだからさ」
そう言う私の声は、どこか自分自身に言い訳しているみたいでもある。

若い頃なら、毛だの掃除だの、こんなことでため息をつかなかった気がする。
最近は腰も重いし、掃除機を持つだけで小さく気合がいる。
それでも、床に落ちた毛を集めながら、悪くないなとも思う。
会社では、誰も私の疲れた背中を気に留めない。けれどこの犬だけは、私が座ると当然のように足元に来て、毛だらけの体を預けてくる。

重いし暑いし、正直ちょっと邪魔だ。でも、その温もりがあるから、今日も帰ってきた意味があるような気がする。
ブラッシングを終えると、柴犬は一瞬だけこちらを見て、小さく鼻を鳴らす。
そしてまた、何事もなかったかのように毛を落としながら、のそのそと自分の寝床へ戻っていく。
床には毛、空気にも毛、私の服にも毛。

それでも、まあいいかと思いながら掃除機のスイッチを入れる。
今年の換毛期も、たぶん地獄だ。
でも、その地獄の真ん中で、私は今日もこの犬の背中を撫でている。